「社会性」
皆さんは、獲得するべきそれを、どの程度のものであればベストとお考えだろうか?
どの程度の社会性を自らに、あるいは他者に求めるだろうか?
皆さんは、かつて学校の寮生活等において、長期間に渡って他者大勢と寝食を共にする経験をしたことがあるだろうか?
まず、社会性を養うことが生きていく上で大切なことは多くの人が認識していることだと思う。
それは間違っていない。
その通りである。
しかし、それは挨拶にはじまり、ハッキリと返事をするとか、感謝の気持ちを持つとか、ある程度は話を合わせることであったり、ホウレンソウ(報告・連絡・相談)であったり、生きていく上で、「必要最低限」のコミュニケーション能力、調整能力、知っておくべきマナー、ということである。
他者と格別に歩調を合わせて、迎合して、楽しく和気あいあいと過ごして、四六時中、集団にいなければならない、という次元のものではない。
そのようなスタンスでなくとも、全く問題なく人と関わって生きていけるからだ。
学校の授業や就業時間以外は、独りぼっちでも良し。
それは少し考えれば分かることである。
こういった過剰な社交性を他者に求める人間がいる。
そうでありたい人は、自分がそうしていればよい。
協調に重きをおく日本人の特徴が、他者への押し付けとして、如実に現れているのかもしれない。
さらに付け加えると、社交的で、おしゃべりで、いつも にぎやかにしている人間は、場合によっては「軽薄な人間」と受け取られかねない、ということを知らないのだろう。
暗さにも暗いという色がある。
死んだら暗ささえ分からない。
暗さはその人の素敵な色味だ。
寡黙な人は逆に「口がかたい」とも言える。
「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉を存じていると思う。
万人から好かれるかどうかは別として。
性格は、白色でもよし、暖色系でもよし、暗くてもよし。
問題はそこではない。
大切なことは、先に述べたような「必要最低限」の社会性の習得に加えて、他者や集団と関わる中でストレスを受けた場合、これをうまく逃せる技術や手段(趣味であったり)を獲得して、健康を維持していく引き出しを増やしていく事にあるのだ。
そもそも性格改善なんて無理。
私の経験上、コミュニケーション能力や社交性は、個人差はあれど、多少なりとも向上する。
社会経験を経ていく中で、それを実感してきた。
私の場合は、昔の自分が驚くほどに変わった。
しかし、根本の性格を、他者が求めるほどに大きく変えることは不可能に近い。
かつて私が出会った悪党(あえてそう呼ぼう)に、「性格改善」を掲げた自称・教育者の体罰推進派がいた。
性格改善?!
馬か鹿か知らないけれどもホドホドにしろ、と言いたい。
私が運悪く出会ったその人間は、血液型で性格を判断しようともしていたような人間だった。
教養が無い人間はどこまでいっても無知なのだと、私は呆れたものであった。
そして、重要な点は、仮にどの程度の社会性にしても、集団行動だけでなくても覚えられる、ということ。
集団行動にこだわる必要など全くない。
相手が1人であっても、2人であっても、それが知人であっても、恋人であっても、少人数であっても、学ぶことができて、笑うこともできるし、心を豊かにするものだ。
私はそうだった。
今でもそうである。
むしろ、四六時中、集団行動にどっぷり浸かるという状況は、生まれつきの気質(HSP、社交不安障害等)により、逆に精神衛生上、好ましくないタイプの人がいる。
つまり、いわゆる寮生活などの「共同生活型」の集団行動というものは、理解できない人にとっては想像を越えるほど、とんでもなく本人に負担を与えるものなのだ。
特に寝食を共にするメンバーとの相性も、その効果と意義に甚だしく影響する。
私が経験「させられた」共同生活。
1人になれる時間が皆無。
何日のレベルではない。
私はそれを4年半もの期間、強制的に経験を「させられた」。
共同生活は、「私」というパーソナリティーに対して、嫌悪感と不快感、ストレス、恨み以外、全く何も残さなかった。
何十人という人間がいて、最後まで誰1人、受け入れることができなかった。
今では就寝中の悪夢という形になって見事に花が開いている。
拘束と不自由、恫喝と暴力を伴った集団生活、共同生活よ、それも4年半もの長きに渡って、本当にどうもありがとう!
個人差を当たり前に大切にする社会であらんことを願う。
不適王