不適王の再建記                  

©️2018-2024 不適王 (id:nekozebito)                                         

翼を広げて大空へ

大空翼先輩のストーリーを第1巻から読んでいる。

 

ストーリーの中の少年たち、翼君とチームメイト、ライバルたちは、今の私よりもずーっと年下だけれど、当時 小学生だった私よりも歳上の中学生、先輩だ。

 

1980年代、私はサッカー漫画の金字塔『キャプテン翼』のほとんどを知らなかった。

 

ほんのわずかに、断片的に、うっすらと、コミックスやテレビアニメで知っているだけだった。

 

今、コミックス第23巻目。

 

南葛中学と東邦学園の世紀の一戦、その佳境に入った。

 

小学生だった私は、運動もサッカーも大の苦手、人間関係も大の苦手だった。

 

でも大空翼君のストーリーを読んでみようと思ったのは、単純にどんな物語だったのだろう?

という思いと、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』『キン肉マン』『北斗の拳』など、当時読めなかった漫画を読んでいくことで、「漫画は人生の教科書だ!」という思いを強くしたからだ。

 

天才サッカー少年の大空翼君は、小学校を卒業と同時にサッカーの国、ブラジルへ行くつもりだった。

 

しかし、サッカーの師 ロベルト本郷は、諸事情により翼君をブラジルへ連れていかず、彼は中学生となった。

 

今、満身創痍の中、全日本中学サッカー大会で夢のV3を目前としている。 

 

ボールは友だち。

 

そして私にとっては漫画が友だちだ。

 

漫画は人生の教科書 > 学校の教科書。

 

今後、大空翼先輩と仲間たちは、私 不適王に何を見せてくれるのだろう。

 

何を教えてくれるのだろう。

 

大空翼先輩は、はたしてブラジルへ行くことができるのだろうか?

 

人生の学びとともに『キャプテン翼』がすごく楽しみだ。

 

 

不適王

 

『不適王の実録記 ~某 不登校・引きこもり引き出し業者の実態~』

https://jitsurokuki.hatenablog.com/

 

recovery

 

 

今年も終わるけれど私の道は続く。

 

私の道は失われた時を取り戻す道。

 

リカバリーの道。

 

もう一度、あの時、あの頃を生きなおしてみようとする道。

 

人が生きる上で最も大切な時期は、幼児期~小学生ぐらいの時期。

 

その期間にその子が必要とするものがある。

 

ある子にはそれほど必要でなくても、ある子には必要なものがある。

 

そこでの差が、後々に大きく影響してゆく。

 

従ではなく、対

 

和ではなく、個

 

信ではなく、知

 

無ではなく、言

 

物ではなく、人

 

あの時の自分にしてあげられなかったことを、セルフリカバリーしていきたい。

 

今年はとても大きな前進があった。

私の前進とは、世間一般的なものではないが、大きな変革だった。

来年はまた一歩を踏み出す。

 

はてなブログの皆様からも良い刺激を頂いている。

似たような境遇の人からも、そうでない人からも。

 

稀に心の傷が、本心ではない荒波となって押し寄せることがあって、不安定な顔をのぞかせる。

 

私は間違いなくHSPに限りなく近い。

 

そしてアダルトチルドレンなのかもしれない。

ちなみに私の初恋の人がそうだった。

 

人から大切にしてもらおう。

 

そして人を大切にしていこう。

 

私にとってのお陰様と感謝を忘れずに、これからも地道な達成感や自己肯定感を醸成してゆき、自律した人になろう。

 

 

 

 

不適王

医者のこと #2

日頃、私が受診している某診療科のベテランの男性医師は、基本的には柔らかい物腰で対応をする人だが、ある部分では勉強不足であり、また頑固な一面をのぞかせてイヤな思いをさせられることもある。

 

これは医者アルアルのようで、医師も人間であり、未熟な部分もあるということなのだろう。

 

もちろん、その医師のおかげで恩恵を受けることもあるし、医師をコロコロ変えると面倒くさいので、今のところ、これからもこのまま継続して関わってもらうつもりだ。

どこへ行っても何かあることだろう。

 

さて、この医者と関わってもう10年ほどになる。

 

その中で、もう1つだけ、気になる場面があった。

 

しばらく前のこと。

 

診察室に入って椅子に腰を掛けると、開口一番、医者が私に苦笑いをしながら言うのだ。

 

「さっきの女の子が大変で」

 

……… 

 

私と入れ違いだったその若い女性の患者さんと、どのようなやり取りがあったのか分からない。

その医者からすれば、技術的に対応に困るか、展望が開けない患者さんだったのかもしれない。

あるいは、もしかしたら患者さん側に不遜な態度があったのかもしれない。

 

それでも、私は医者のこの発言を聞いたとき、不信感が湧いた。

 

曲がりなりにも何かに困って受診をしている患者さんだ。

 

そして、プライバシーの問題がある。

万が一この患者さんと私が顔見知りだったら、場合によってはかなり問題になるケースだと思う。

 

仮に、私がその患者さんと顔見知りであったとしても、ややこしくなるので私は医師の発言を秘匿しておくが。

 

そして何よりも、もしかしたら私のことを医者の口から他の患者さんに言われる可能性だってあるということだ。

 

感情労働の医者も大変だろうなぁ、といつも思いを馳せている。

大勢の患者さんを診なければいけない。

 

それでも、物言えば唇寒し秋の風

 

医者には守秘義務もある。

 

あれは医者の不注意な発言だった。

 

 

不適王

医者のこと #1

とあるクリニックの診療科を受診していると、医者との会話の中で、受け答えに驚かされるだけでなく、不愉快極まりないこともあるものだ。

 

当然、医者が担当している専門の分野においては、医者は熟知している。

 

ただ、診療科によっては、隣接する分野、横断的な分野についての知識と連携が必要不可欠になる場合もあって、実際にそのような場面は多いし、多くのケースにおいては医者も把握している。

 

先日、私が受診した場面においても、まさにそのようなケースであった。

 

ところが、そのベテランの医者からは、 

「え?え?何ですかそれ?」

といった反応が来て、こちらが驚かされた。

 

(この医者は勉強不足だなぁ…これだけのベテランでも知らないんだなぁ…)

と思わされつつ、こちらから説明する。

 

ところが、説明しても、

「え?それは、どこでお知りになったんですか?…(省略)… いやいや、それは見間違いだと思いますよ?」

と、そんなものは無い、なんて失笑を交えながら完全に否定してくるものだから、カチン!ときたのだが、

「次、その(見られたという)冊子を持って来てね。」

と言うものだから、次回の診察で再度冊子を持参して説明しなければならなくなった。

 

自分のことなので、面倒くさいと言ってはダメだけれど、面倒くさい!

 

こちらは専門で勉強したこともある上に、個別に調べてきたことで間違いない上、素人でも多くの人が知っている知識だ。

 

医者でも隣接する分野の社会資源・ネットワークなりを学ぶ機会が無いまま、また患者から教えられることもあるという、まさにそんな場面だった。

 

 

不適王

 

これぞ人生の教科書

私が小学生時代に学校で学び、大人になってからも役に立っていることと言えば、平仮名、カタカナ、漢字、足し算引き算、九九、すぐに思いつくものは、そんなものだろう。

 

学年が上がるたびに支給される真新しい学校の教科書。

 

その匂い、その表紙から伝わるプレッシャー。

 

あるいは、親が知人やコミュニティから譲り受けたお古のドリル。

 

無駄にストイックな反復の公文、いや苦悶だった(※合う人もいるだろう)。

 

勉強が全くできなかった当時の私にとっては、自宅に帰ったら無理矢理やらされたドリルとヒステリック気味な偏った教育。

 

親が唯一助かったことは、私が強く言い返さない子どもだったことだろう。

 

できないものは絶対にできない、という当時の私に対する配慮のある寄り添い方ではなかった。

 

大変なストレスだったことを思い出す。

 

そんな私のサイレントな暗黒期、小学生時代。

 

現在、start over、brush up をテーマに掲げて、今あらためて当時に戻って学びなおしていることがある。

 

国語を?

理科を?

社会を?

 

いいや、ジャンプ・コミックス。

 

コミックス??

 

そう、漫画だ。

 

当時はジャンプ・コミックスの黄金期であったにも関わらず、私は諸事情により、数々のジャンプ・コミックスを手に取る機会が極めて少なかった。

 

その為、当時の世代としては漫画というものをほとんど知らずに育った比較的珍しい少年であった。

 

その漫画、特に往年のジャンプ・コミックスをザックリとではあるが、数十年越しに読み漁っている。

 

今になって漫画を読み進めていくうちに知り得たこと。

 

それは狭い世界で生きている人が、外部の世界や多様な文化を知った時に享受するそれのように、当時の私には学校のどんな教科書よりも、家庭に持ち込まれたどんなドリルよりも、公文よりも、この漫画が必要だったんだ、と確信をもてたのである(※私の場合)。

 

私にとって本来必要であったことが、漫画の中に目一杯詰まっていた。

 

そして漫画には答え合わせも付いていた。

 

その詳細はあえて言わない。

 

古本屋へ行くと、立ち読みをしている人を沢山見かける。

 

私の場合は古本屋で立ち読みは絶対にしないし、長時間の立ち読みをする人を快く思わないが、漫画が身近にあって、読むことができる、読み進める力がある、ということは本当に素晴らしい財産だと思う。

 

さて、今日も人生の教科書の続きを読んでいくとしよう。

 

あ、その前に、久しぶりのはてなブログ、皆さんのホームへ寄らせて頂こう。

 

 

不適王

磨く

人間は人生経験を通して心が磨かれていくそうだ。

 

逆に磨かれていない人は、よっぽど刺激が無い日常を過ごしているか、自発的な意識が足りないか、エゴが強すぎるか、傲慢か、付き合う人・家族を含めて環境がよろしくないか、まず間違いなくどれかだ。

 

心がどれほどまで研鑽されたのか?

自己評価でも、他己評価でも、それを評価することができる。

 

私はどうか?

 

私は幼い頃、他人軸でムダに苦しんで損な時間を過ごしてきた経験をしているため、できるかぎり「自分軸」を大切にしている。

 

そこから毅然と言わせてもらうと、私こそ俗世間の凡人でありながらも、ずいぶんと磨かれてきた。

だって、元が酷いのだから。

 

自分で言うのもアレだけれど、ようやく錆びが取れたところまできたかな。

 

これからも「鏡面仕上げ」とまではいかなくても、ピカールで磨いたところまではいきたいな。

 

やっとこさ、少しだけ光ってきた。

 

人間力のアップデートに年齢は全く関係がない。

 

だから未熟者の私は、これからも自ら磨き、磨かれていくのだ。

 

 

ギザ10(昭和26年) 



磨いてみた

 

 

 

 

不適王

 

 

社会性、個と集団

 

「社会性」

 

皆さんは、獲得するべきそれを、どの程度のものであればベストとお考えだろうか?

 

どの程度の社会性を自らに、あるいは他者に求めるだろうか?

 

皆さんは、かつて学校の寮生活等において、長期間に渡って他者大勢と寝食を共にする経験をしたことがあるだろうか?

 

まず、社会性を養うことが生きていく上で大切なことは多くの人が認識していることだと思う。

それは間違っていない。

その通りである。

 

しかし、それは挨拶にはじまり、ハッキリと返事をするとか、感謝の気持ちを持つとか、ある程度は話を合わせることであったり、ホウレンソウ(報告・連絡・相談)であったり、生きていく上で、「必要最低限」のコミュニケーション能力、調整能力、知っておくべきマナー、ということである。

 

他者と格別に歩調を合わせて、迎合して、楽しく和気あいあいと過ごして、四六時中、集団にいなければならない、という次元のものではない。

 

そのようなスタンスでなくとも、全く問題なく人と関わって生きていけるからだ。

学校の授業や就業時間以外は、独りぼっちでも良し。

それは少し考えれば分かることである。

 

こういった過剰な社交性を他者に求める人間がいる。

そうでありたい人は、自分がそうしていればよい。

協調に重きをおく日本人の特徴が、他者への押し付けとして、如実に現れているのかもしれない。

 

さらに付け加えると、社交的で、おしゃべりで、いつも にぎやかにしている人間は、場合によっては「軽薄な人間」と受け取られかねない、ということを知らないのだろう。

 

暗さにも暗いという色がある。

死んだら暗ささえ分からない。

暗さはその人の素敵な色味だ。

寡黙な人は逆に「口がかたい」とも言える。

「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉を存じていると思う。

万人から好かれるかどうかは別として。

 

性格は、白色でもよし、暖色系でもよし、暗くてもよし。

 

問題はそこではない。

 

大切なことは、先に述べたような「必要最低限」の社会性の習得に加えて、他者や集団と関わる中でストレスを受けた場合、これをうまく逃せる技術や手段(趣味であったり)を獲得して、健康を維持していく引き出しを増やしていく事にあるのだ。

 

そもそも性格改善なんて無理。

私の経験上、コミュニケーション能力や社交性は、個人差はあれど、多少なりとも向上する。

社会経験を経ていく中で、それを実感してきた。

私の場合は、昔の自分が驚くほどに変わった。

しかし、根本の性格を、他者が求めるほどに大きく変えることは不可能に近い。

 

かつて私が出会った悪党(あえてそう呼ぼう)に、「性格改善」を掲げた自称・教育者の体罰推進派がいた。

性格改善?!

馬か鹿か知らないけれどもホドホドにしろ、と言いたい。

私が運悪く出会ったその人間は、血液型で性格を判断しようともしていたような人間だった。

教養が無い人間はどこまでいっても無知なのだと、私は呆れたものであった。

 

そして、重要な点は、仮にどの程度の社会性にしても、集団行動だけでなくても覚えられる、ということ。

 

集団行動にこだわる必要など全くない。

相手が1人であっても、2人であっても、それが知人であっても、恋人であっても、少人数であっても、学ぶことができて、笑うこともできるし、心を豊かにするものだ。

私はそうだった。

今でもそうである。

 

むしろ、四六時中、集団行動にどっぷり浸かるという状況は、生まれつきの気質(HSP、社交不安障害等)により、逆に精神衛生上、好ましくないタイプの人がいる。

 

つまり、いわゆる寮生活などの「共同生活型」の集団行動というものは、理解できない人にとっては想像を越えるほど、とんでもなく本人に負担を与えるものなのだ。

特に寝食を共にするメンバーとの相性も、その効果と意義に甚だしく影響する。

 

私が経験「させられた」共同生活。

1人になれる時間が皆無。

何日のレベルではない。

私はそれを4年半もの期間、強制的に経験を「させられた」。

 

共同生活は、「私」というパーソナリティーに対して、嫌悪感と不快感、ストレス、恨み以外、全く何も残さなかった。

何十人という人間がいて、最後まで誰1人、受け入れることができなかった。

今では就寝中の悪夢という形になって見事に花が開いている。

 

拘束と不自由、恫喝と暴力を伴った集団生活、共同生活よ、それも4年半もの長きに渡って、本当にどうもありがとう!

 

個人差を当たり前に大切にする社会であらんことを願う。

 

 

不適王