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「笑うこと」の心身へのプラス作用や、時には病気が治ることもある、ということは、多くの研究者や実践者によって、今日 共通の理解となりつつある。
難しく考えなくとも、よく笑えることは、何となく健康にも良さそうだし、そもそも健康の証左であるとも言えるだろう。
美容にも良さそうだ。
私 不適王は、物心ついた頃(小学校に入った頃)から高校に入学するぐらいまでの期間、なぜか妙に性格的に真面目なところがあった。
子どもなのに生真面目。
家系を見たときに、遺伝もあるような気がする。
それ自体 決して悪いことではないのだが、私の場合においては、極めて面白みに欠けると言うか、融通が利かないと言うか、頭が固いと言うか、冗談が分からない、そういった少年であった。
それは今振り返っても、私にとっては少年時代の自らの心をかなり窮屈なものにしていた。
そして重要な点がもう1つ。
私は小学生の頃、特殊な諸事情により、テレビでお笑い番組を見たり、あるいは漫画を読んだりすることができない環境にあった。
そういった情報や文化に触れる機会が皆無に等しかったため、お笑いという心証世界が存在することを知らなかった。
冗談、ギャグ、ボキャブラリー、バカになれる、切り返し方、ふざける、面白い、笑い、ということを知らない気の毒な子どもであった。
いわゆる子どもらしさに欠けた子どもだった。
後になって発達障がい児だったのかな?と思って調べたりもしたが、大人になってからは真逆の人間となったので、少なくとも私の場合は、後々の経験を振り返ってみても、生まれつきの性格と、こういった後天的な環境の影響がずいぶんと大きかったようだ。
テレビや漫画だけでなく、身近にそういった笑いのニュアンスを教えてくれる人もいなかった。
そのため、小学校に入り突然始まった同級生とのコミュニケーションに遅れをとり、大いに支障をきたし、ずいぶんと不適応な子ども時代を過ごしていくこととなった。
今 考えてみれば、なんとでも切り返して受け流せる同級生からのカラミやチョッカイも、受け手の私は数限りなく大損をしていたと思う。
私のメンタルヘルスにおいては死活問題であり、後々レールを外した一因となった。
これは小学校時代ずっと続き、中学生~高校生ぐらいになってからも続いた。
「笑い」の好き嫌いは、個人の感性によって大なり小なり異なる。
私はずいぶんと暴力的なものや、あまりに品が無さすぎるもの、露骨に人をバカにしたり見下したりする類のお笑いは、あまり好きではない。
同様の人はかなりいらっしゃるように思う。
でも、全てシャットアウトするわけではないし、今ではテレビこそ見なくなったものの「笑い」が大好きだし、柔軟にいろいろな「笑い」に対して爆笑することができるし、自らイメージすることができる。
コメディアンは頭が悪そうに見えたり、しょーもなく見えても、実は頭が良くないとバカやお笑いはできないということが今となってはよく分かるし、人生において生真面目だけでは生きて行けないということを痛感している。
よく笑うこと、笑えること、大げさではなく生命や人生にとってとても大切だと思っている。
年齢を重ねて、おかげさまで、あの頃からは考えられないくらい爆笑することが多々ある今、もしタイムマシンがあるならば、お笑い番組や漫画、面白そうなコンテンツを沢山たずさえて、小学生の自分に会いに行き「勉強なんてできなくてもいいから、これ見て とにかくよく笑え」と導いてあげたい。
『ヨクワラエ』
不適王