私にとって、学生時代の先生(教師)は、クラスの担任を受け持っているというだけの人であり、近づきがたく、親しみにくい存在であった。
中学校に入ってからは、教科ごとに担当の先生も配属されているのだが、どいつもこいつも(あ、失礼)、まぁ人間なので個性もあるのだけれど、私にとっては間違いなく模範や尊敬の対象ではなかった。
率直に言うと言動が薄気味悪い先生もいた。
先生との思い出など何一つない。
特に、私が入った中学校では変人もいた。
私が適応できなかった野球部の顧問は2人いて、サブの役割であったおそらく定年間近の顧問は、頭のイカれた教師だった。
その小汚ない服装や見てくれだけでなく、生徒の髪の毛にライターで火をつけたりと、今の時代であれば内部告発からの炎上ものの大問題となるような事をしでかす顧問であった。
私にとっては、学校の先生なんて全く無価値の存在だった。
困ったときに助けを乞える存在ではなかったし、学びとなる何かを授けてくれる存在でもなかった。
何事もニュースになる現在では、教師の恥ずかしい不祥事の報道が後を絶たない。
どれだけ多いことか。
また、私が以前お付き合いをしていた彼女のとても近しい人に学校の教師がいたのだが、その教師は奇異な言動を取り続けて家庭が崩壊した。
私の元彼女周辺の話はともかくとして、私は学校の先生とか教師と呼ばれる存在に対しては、敬意を示すことができない。
「教える」目的が違えど塾の講師も、しかり。
もちろん、広く世の中には、生徒から慕われる立派な先生がいらっしゃることも承知している。
私は、そもそも「先生」「教師」という言葉が大嫌いだ。
私の母親は「 (学校の先生でなくても) 自分よりも先に生まれた人は誰でも先生」と言ったことがあるのだが、私はどのようなコミュニティであっても、心の底からそれは絶対に認めない。
私は常日頃から、歳上の人、人生の先輩に対しては、敬う態度、気遣う態度を示さなければならないという立ち位置だ。
至る所で実際にそれを実践している。
しかし、それは相手の前提条件によって、また相手との関わりの中で変化しうるものだ。
自らの意思でこの人を尊敬できる、と慕うことができ、またその上で「先生」「敬うべき先達」と呼称するのであれば構わないが、他人に無条件で「私を(あの人のことを)先生と呼べ」「私を(あの人のことを)敬え」と強要するものではない。
私は過去にそうやって抑圧された経験がある。
もし私がそんなコミュニティにおける現役の生徒であったら、今の私ならば自身のスタンスを表明した上で「○○さん」と呼ばせてもらう。
それで殴られでもしたら、同等に殴り返すか、殴り返さずともしかるべき対処を取ると思う。
私にとって「先生」とは、そういうもの。
不適王