不適王の再建記                  

©️2018-2024 不適王 (id:nekozebito)                                         

体罰 #2

日頃からありがとうございます。

そして皆様のブログから、いつも学ばせて頂いております。

人の心が大切にされる、より良い家庭・社会となりますように。

人が正しく学び、他者を信頼できる家庭・社会となりますように。

 

筆者

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体罰」と言うと、身体的なものだけをイメージする人が多いと思うが、それだけではない。

 

体罰をする人間にかぎって、言葉で相手の人格を潰す。

 

・相手の苦悩に心を全く寄せない

・相手に選択肢を与えない

・相手の人格を否定し見下す

・相手の人生そのものを否定する

 

私がかつて体験した悪の巣窟では、これを身体的体罰に加える事が常だった。

 

受け手がどういう気持ちになったのか、関わった人間は未熟だから認識できていないのだ。

 

こういう連中は救いようがなく最低最悪だ。

こちらの方こそ尊大に振る舞う彼らの人格を疑わざるを得ない状況であった。

 

刑法にも係る被害者の私としては、譲ることは絶対にあり得ない。

万に1つ譲るとしても、身体の体罰も含めて他者の人格を罵倒し、他者の人生を否定するなら、正々堂々と、ありとあらゆる衆人が見える所でしろよ、と言いたい。

 

容疑者は「昔から(体罰は)あったよな」

と言いながらも、絶対に表ではしなかった。

ひたすら故意に隠そうとしたのは、やましい行為であることを分かっているからだ。

 

衆人の前では正々堂々としない。

それが彼らのような人間の常だ。

 

本当にズルくて卑怯で下劣極まりない。

 

仮にも「指導」?「改善」? を標榜しているわけだが、実は自ら進んで「私には指導力がありません」と言っているようなものであり、自らを貶めている行為だ。

 

こういう自称・指導者のライフヒストリーを辿ってみると、私が知る限りでは、

 

・他者の痛みに鈍感

・言葉で教える力、コミュニケーション能力、その技術がかなり不足している

・性格における攻撃的で支配的な素因に加えて、負の世代間連鎖を経験している

体罰で成果が伴うと勘違いをしている

 

こういった背景がある。

 

暴力的な素因。

私が目の当たりにした人間は、なんとあろう事か、ナチスドイツそしてヒトラーのポスターを、いわゆる指導?現場に、これ見よがしに壁に貼り付けていた。

 

皆さんはこれをどう思うだろうか。

 

本当にそんな場所があるの?

そんな人がいるの?

と思われることだろう。

 

これは近年、日本国内で実際に起きている事である。

 

また、負の世代間連鎖とは、容疑者の親がまた暴力的であったり、あるいは容疑者が学校の先輩から暴力を受けてきたことを意味する。

 

このような自称・指導者の真の姿を、私の母親は、一時「あの人はすごい人なんだから」と盲信していた。

無知ゆえの愚かさ、である。

 

両親は誰からも厳しく指摘、糾弾されなかったわけだ。

これは極めて不幸な事である。

私は後になって、被害者の立場として、かなりの剣幕と厳しさで迫った。

 

昔から、両親ともに他者の痛みに非常に鈍い人間だと感じる。

そこにある「人の心」というものに対する意識が低すぎる。

 

自分の何かに置き換える、という所まで思いが及ばない。

 

そして、私の両親に共通している要素は、コミュニケーション能力や技術がかなり不足している。

幼い時から、子どもへの言葉の掛け方1つ、不足していた。

そして古い体質を持っている親であり、親が主導権を握っていた。

2人を長年見てきた私は、常々 痛感している。

 

そして、体罰や拘束といった傍若無人な環境は、子どもの人格形成や将来の為にならない事を知る由もない。

 

そして臭いものには蓋をする習性がある。

チープな正当化もしていたことであろう。

 

体罰」「拘束」等の人権侵害は、関わった人間全ての責任である。

そういう場所を容認した全ての人間に、だ。

 

当事者は私であり、知っているのは私である。

どれほどの期間、どれだけの事を目の当たりにしてきたと思うのか。

当事者の言葉が、現場への評価であり、親へのフィードバックであり、これが全てなのだ。

 

そして、そもそも私にも選択する権利があったはずだ。

私は知らされなかった。

説明も何も無かった。

選択する機会を与えられなかった。

 

そこで既に暴走が始まっていたわけだ。

 

私の親のように、無知で、盲信した人間が、彼らのような犯罪自営業者を暴走させた。

 

体罰の現場では「連帯責任」という言葉を使用された。

 

いやいや、その言葉を体罰に関わった全ての人間へ、そのまま返したい。

 

こういう反社会的な自称・教育者のことは、これまで多くの被害者側が、そして社会やマスコミが絶対に許してこなかった。

いくつもの裁判沙汰となっている。

 

運が悪くも私が関わってしまったその容疑者らは、とある裁判を経て敗訴し、一部社会的責任を負わされた。

そして、後に私を含めた多数の人間の怨念と社会正義の波に押され、廃業している。

 

学校やあらゆるコミュニティでは市政(公共)の眼差しが育くまれ、地域の条例も続々と制定された。

 

これらに私も1つの役目を担っている。

 

これからも、どのようなコミュニティであれ、このような事案があれば、益々、即刻、炙り出されるであろう。

 

負の連鎖を断ち切る為にも、そして同じような被害者を出さない為にも、同志たちよ、私はこれからも惜しみなく被害者やマスコミに協力したい。

 

 

序章/完

 

 

不適王

体罰 #1

日頃から、このような はてなブログ辺境の地を訪れて足跡を残して下さる皆様、本当にありがとうございます。

引き続き、皆様のブログにも、順次 訪問させて頂きます。

 

不適王 

 

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皆さんは「体罰」について、どう思われるだろうか?

 

どこまでが「体罰」なのだろうか?

 

ご自身いわく「体罰」を受けた体験はあるだろうか?

 

もし「体罰」を受けたことがあるならば、それは貴方にとって、どのような意味があったのか?

 

まず、あらかじめ言っておくが、私がここで言う「体罰」とは、学校の先生に一度だけ平手打ちをされた、とか、廊下に立たされた、とか、職場の上司に蹴られた、ひっぱたかれた、とか、その程度のレベルのものではない。

 

略取、誘拐、人身売買、身体の自由の侵害、言論の封殺など、広範な人権侵害を伴い、それを長期間、刑法や各種条例にも抵触する類の体罰だ。

体罰という言葉では収まりきらない閉鎖的で欺瞞の教育である。

 

そんなことあるの?

と思われた人もいるかもしれない。

 

実は、私 不適王には、ある。

 

そしてこのような体罰という名の人権侵害は、死んでも絶対に反対だ。

反対という言葉は極めて控えめに言っている。

 

嫌だから?

 

ツラいから?

 

そんな事は言うまでもないことなのだが、

 

そこからは何も生まれないからだ。

 

何をだと思う?

 

もし、貴方がそれを答えられなかったら、この分野では経験と勉強不足だ。

 

自ら進んで、どこかに無駄で意味の無いお金を払って、過酷で常軌を逸した体罰を、それも長期間に渡って、受けてきたらいいと思う。

絶対に奨めることはしないが。

 

体罰はね、

人間が社会で生きていく上で最も必要な、人の心の内側からの真の変革や成長と、そして他者を信頼する、という心を、決して生むことはないからだ。

 

そして、心と体に大きな傷を負い、回復までに多大な時間を要するからに他ならない。

 

ここでは、あくまで控えめに狭義の体罰をメインに取り上げていく。

 

体罰問題については、元プロ野球投手の桑田真澄さん(55)が、10年前に、朝日新聞の取材に応じ、「体罰は不要」と訴えている。

 

紹介したい。

 

 桑田さんは、中学まで毎日のように練習で殴られた経験を踏まえ、「子どもの自立を妨げ、成長の芽を摘みかねない」と指摘した。

「殴られるのが嫌で仕方なかったし、グラウンドに行きたくありませんでした。今でも思い出したくない記憶です。」と語っている。

 

 桑田さんは、早大大学院にいた2009年、論文執筆のため、プロ野球選手と東京六大学の野球部員の計約550人にアンケートをしている。

 桑田さんは 語る。

体罰について尋ねると、『指導者から受けた』は中学で45%、高校で46%。『先輩から受けた』は中学36%、高校51%でした。

意外に少ないな、と思いました。

ところが、アンケートでは『体罰は必要』『ときとして必要』との回答が83%にのぼりました。

『あの指導のおかげで成功した』との思いからかもしれません。

でも、肯定派の人に聞きたいのです。

指導者や先輩の暴力で、失明したり大けがをしたりして選手生命を失うかもしれない。それでもいいのか、と。

 私は、体罰は必要ないと考えています。『絶対に仕返しをされない』という上下関係の構図で起きるのが体罰です。

監督が采配ミスをして選手に殴られますか? 

スポーツで最も恥ずべき卑怯な行為です。

殴られるのが嫌で、あるいは指導者や先輩が嫌いになり、野球を辞めた仲間を何人も見ました。

スポーツ界にとって大きな損失です。

 指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。

昔はそれが正しいと思われていました。でも、例えば、野球で三振した子を殴って叱ると、次の打席はどうすると思いますか? 

何とかしてバットにボールを当てようと、スイングが縮こまります。それでは、正しい打撃を覚えられません。

『タイミングが合ってないよ。どうすればいいか、次の打席まで他の選手のプレーを見て勉強してごらん。』

そんなきっかけを与えてやるのが、本当の指導です。

今はコミュニケーションを大事にした新たな指導法が研究され、多くの本で紹介もされています。

子どもが10人いれば、10通りの指導法があっていい。

この子にはどういう声かけをしたら、伸びるか?

時間はかかるかもしれないけど、そう考えた教え方が技術を伸ばせるんです。

 『練習中に水を飲むとバテる』と信じられていたので、私はPL学園時代、先輩たちに隠れて便器の水を飲み、渇きをしのいだことがあります。

手洗い所の蛇口は針金で縛られていましたから。

でも今、適度な水分補給は常識です。

スポーツ医学も、道具も、戦術も進化し、指導者だけが立ち遅れていると感じます。

 体罰を受けた子は、『何をしたら殴られないで済むだろう』という後ろ向きな思考に陥ります。

それでは子どもの自立心が育たず、指示されたことしかやらない。自分でプレーの判断ができず、よい選手にはなれません。そして、日常生活でも、スポーツで養うべき判断力や精神力を生かせないでしょう。

 『極限状態に追い詰めて成長させるために』と体罰を正当化する人がいるかもしれませんが、殴ってうまくなるなら誰もがプロ選手になれます。

私は、体罰を受けなかった高校時代に一番成長しました。

『愛情の表れなら殴ってもよい』と言う人もいますが、私自身は体罰に愛を感じたことは一度もありません。

伝わるかどうか分からない暴力より、指導者が教養を積んで伝えた方が確実です。

 日本のスポーツ指導者は、指導に情熱を傾けすぎた結果、体罰に及ぶ場合が多いように感じます。

私も小学生から勝負の世界を経験してきましたし、今も中学生に野球を教えていますから、勝利にこだわる気持ちは分かります。

しかし、アマチュアスポーツにおいて、服従で師弟が結びつく時代は終わりました。」

 

この言葉、甲子園、そしてプロ野球で輝かしい成績を残した超一流投手の言葉だ。

 

体罰は、受けた側に何も残さない。

 

 

引用

体罰は自立妨げ 成長の芽摘む」桑田真澄さん経験踏まえ. 朝日新聞. 2013-1-11. 朝日新聞デジタル.

https://www.asahi.com/edu/articles/TKY201301110314.html (2023-6-21)

 

 

 

不適王

公園清掃の現状と担い手問題について

父の日が近い。

日頃の感謝の気持ちを込めて、少しでも父の希望の1つを世間の皆さんに届けようと思い、書くことにした。

どうやら少しは、不祥の息子ではないようだ。

 

高齢の域に入っている父は、日本のとある町で、公園の清掃ボランティアをしている。

 

夏場の公園の雑草引きや、秋の落ち葉拾いの活動をしているそうだ。

 

本人によると、ボランティア活動は、適度な運動と社交の場として健康に寄与することは認識しているようで、また、自治体からも制度により補助金が出るし、草刈り機やブロアーを購入したりしているそうだ。

 

しかし、日頃から公園清掃の有志が集まりにくいこと、御多分に洩れず、高齢化による後継問題があるようだ。

 

おそらく、これは日本全国、津々浦々の問題でもあることだろう。

 

資料を見てみよう。

 

一般社団法人 みんなの公園愛護会は、2021年、全国での調査を行っている。

調査対象は、自治体(全国47都道府県1.346市区町村) 及び、担い手(37自治体2292団体) である。

 



やはり高年の人がメインだ。

 

やりがい はどうだろう?

 

 

先日 私はブログに、コロナ渦によるスポーツジム閉鎖、そして高年の人々の健康と交流の場所が失われた件を書いたのだが、公園清掃ボランティアというものは、それの代わりを果たしていると言ってよい。

 

 

行政の視点、担い手の視点、やはり担い手不足と後継問題は外せない。

 

ちなみに、ポイ捨て問題については、見つけ次第、どついてやったらいい。

あくまで、どつくだけ (え?いいの?)。

それ以上は絶対にダメ。

ただし、少なくとも、口喧嘩、体力、腕力、逃げ足、駆け足に自信がない人は絶対にやめよう。

いやいや、自信があっても、やめよう。

下手したら刺されるので。

 

 

うんうん、やはり父が活動しているエリアだけの課題ではないようだね。

 

これをね、仮に有償性にしたとしても、そもそも体を動かすことや他者と交流することが楽しいという人以外は、やらないと思う。

自宅の隣が公園である人以外は、特にやらないと思う。

 

私個人的にはね、

シルバー人材派遣以外にもね、

福祉の就労継続支援サービスに依頼できないのか?

とずっと思っている。

ある程度、活動を理解して、活動できる程度の状態にある青年、壮年、中年であれば可能だと思う。

適度な交流も含めて、身体・知的・精神障がい を抱えてらっしゃる人の、心身の健やかなるリハビリに、あるいはインクルーシブ教育に、少しでも寄与できるのではないかな?と思っている。

 

有償ボランティアか、こういう仕事であったら一層のことだけれど、父の公園清掃ボランティアについては、たまには手伝いたいね。

体力については余裕なので。

 

皆さんの生活圏でも、公園清掃ボランティア活動が行われていることだろう。

 

特に後継者問題について、はてなブログの皆様にお時間があれば、一言でも結構なので、建設的なご意見を賜りたく思う。

 

 

※引用資料 一般社団法人 みんなの公園愛護会

「地域の小さな公園を守る公園ボランティアの今」

資料3

 

 

不適王

自分の心に置き換える

他人の気持ちや感じることなんて、そうそう分かるものでもないだろう。

 

どんなに鋭い人や敏感な人でも、その精度は100%であるはずがない。

 

私のような人間ですら、それぐらいの事は分かっている。

 

他人が、何事かによって、どれほどの思いをするのか?

どれほどの苦汁をなめるのか?

 

そんなもの、分かりようがない、と言ってしまえばそれでおしまいだ。

 

私は人に、いや親に、人の気持ちが分からないのなら、

1度だけ以下のように伝えたことがある。

 

自分が最もツラく腹正しくイライラしたストレスフルな場面を思い出してみるといい、と。

 

相手が、その何倍の苦痛、違和感、不安、緊張が、四六時中続いていたとしたら?

と想像してみるといい、と。

 

その時に、ハッとした考えさせられる顔をして、いくばくかの理解をしたような姿をみた。

 

どれだけ分かったのか知る由もないけれど。

 

人は、そこが抜け落ちるから、都合のよいことばかりを拾ってしまい、時の経過と共に取り返しのつかない痛みを与えてしまっている。

 

その事を、私のような薄い人間ではなく、賢明で思慮深い心眼をもった本当の意味で博識な人間であるならば、知っている。

 

私が、まがりなりにも、人の心、メンタルヘルスをとても大切にしているわけは、幼い頃からの環境だけでなく、成人してからも心を砕いてきた経験に起因する。

 

人の心を大切にしたのならば、必ずや人から誠実な形となって返ってくる。

 

人から大切にされたと感ずるなら、否が応でも人を大切にする人間となる。

 

その逆もしかり。

 

私は生まれた瞬間から、生きている中で、大いなる責任がある。

 

それは見える相手の姿にではなく、見えづらい相手の心に対して。

 

 

不適王

 

 

信用そして信頼があってこそ

日頃から本当にありがとうございます。

季節も変わりつつあり、また南からつむじ風の便りもあり、はてなブログの皆様におかれましては、どうぞご自愛下さいませ。

 

不適王

 

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これはあくまで対人関係に集約した話として、心の整理として、そして世界と後世に向けて書いている。

 

私は彼らを、彼らの性格を、その人間性を、そして、彼らがやる事を、彼らが巣くう空間を、彼らが秘密裏に行っていた全てを、今でも断じて許していないし、その思いはこれからも変わらない。

 

ましてや感謝?

やりきった感?

 

そんなものなど あろうものか。

 

人は誰でも受け入れることができると思っているのか。

 

どのような場でも、そこから学べ、とでも言うのか。

 

自分よりも先に生まれた人間は先生??!

 

どの口が言えるのか。

 

そんなことが認められると思っているのか。

 

私には到底受け入れられない人物がいた。

そしてコミュニティや空間があった。

 

それは私が我が儘だからなのか?

 

私が弱いからなのか?

 

私が甘いからなのか?

 

あるいは私が馬鹿だからなのか?

 

私が幼稚だからなのか?

 

いいや、

 

では言おうか、

 

それは違う。

 

一般的に、学校や職場、家庭において、人が他人から何かしらを学ぶ時や、あるいは逆に他者に何かを教えようとする機会や場面は多々ある。

 

多くは、偶然の巡り合わせであり、無条件で受け入れざるを得ない機会の連続である。

 

私にもあった。 

 

沢山あった。

 

それは学校であり、職場であった。

 

昔、私の職場には、とても厳しくストイックな上司や先輩がいた。

 

それはそれは厳しく当たられ、様々なことを教わった。

 

時に反発して、裏の廊下に出ては睨み合い、足蹴りを食らわされたこともあった。

 

その上司からは「土人」と呼ばれたこともあった(むしろ土人?に失礼だ)。

 

今の時代では、露骨にハラスメントの類が山ほどあった。

 

その後の職場でも、辛酸をなめた件が山ほどあった。

 

それでも、今となっては これらの職場の上司や先輩、同僚のことを全く悪くも思っていないし、恨んでもいない。

それどころか私は大いに学び、感謝をしているし、今でも知人に笑って話せるほどに良い思い出となっている。

 

しかし、だ。

 

そんな私でも、そんな私でさえも、到底受け入れられない人物やコミュニティというものが世の中に存在した。

 

何年経っても、どれだけ人生経験を積んでも、一向に消えない嫌悪感と記憶。

 

いつまでも夜中の悪夢に出てくる憎き相手。

 

無謀なスパンを消化した果てに、当事者本人の口から出すその答えが結果であり、相手への評価であり、全てなのだ。

 

世の中の人間が、あれを普通にこなせるとでも思っているのか。

 

社会に出ている全ての人間が、私がこなした4年半を全うできるとでも思っているのか。

 

それは無理だったのだ、ということを、私は身体の髄から知っている。

 

そう、

 

これが事実であり、答えの全てである。

 

これはボールを投げられた私以外の他人が、安易に、一方的に、とやかく判断、評価することではない。

 

どの口で、どの立場が言えるのか。 

 

私から言わせれば、地獄の底まで恥ずべきことだ。

 

私が身をもって体験をした事実から言えることは、人は人との相性というものが必ず存在する、ということなのだ。

 

この人は信用がおける。

 

この人は信頼に足る。

 

この人やこのコミュニティからは学んでいける。

 

この人だけは、どうしても信用がおけない。

 

この人のことだけは、どうしても受け入れられない。

 

このコミュニティと思想は私にとって果てしなく受け入れ難い。

 

個人と環境との相性と言い換えることができる。

 

信用と信頼があってこその世界であり人生、命。

 

これ以上の説明は不要なほどまでに、尊く。

 

 

不適王

 

 

情報

いつも本当にありがとうございます。

暑くなってきました。

週明けから台風の影響を受ける地域もあるかと思います。

お気をつけ下さいませ。

 

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何かしらの情報を求めている時。

 

以前であれば、特にインターネットの黎明期では、人づての話というものが、その信憑性や真偽はともかく、非常に大きな存在感を示すものであったと思う。

 

ニッチな分野や領域ではなおのこと、情報を収集しにくい時代にあって、リアルなコミュニティにおける無知な人々による噂話が、尾ひれをつけて話されては広がり、時に脆弱な人々をターゲットにし、「そんな話を聞いたのよ」となった。

 

そんな情報に疎い時代。

 

近年とは異なり、教育現場や企業、コンプライアンスやガヴァナンスが緩い世相の中にあって、ここぞとばかりに人の心の弱みにつけこむ輩が出現した。

 

手段を問わず、オリジナリティを前面に押し出して商売にしよう、と法外な金額を提示して金儲けを企む輩がいた。

 

洗脳された信者のような人々が盲信し、彼らの暴走を許してしまった。

 

その中で心を蹂躙され、闇に葬りさられる青年の物語があった。

 

これは情報を受け取る側の責任でもあり、可能なかぎり自らの目と耳で確かめ、取捨選択をする力が試された時代でもあった。

 

逆にインターネットによる世界が広がった便利な現代においても、数多の情報に振り回されやすくなった。

 

いつの時代も、情弱な情報の受け手になることなく、自らの目を肥やし、心を耕し、人の心に寄り添っていく力が求められている。

 

 

不適王

 

脱・汚部屋

私は独身の男性だ。

 

私は元来 他人を、例えば職場の人であったり知人を、自宅の部屋には絶対に招き入れない人間だった。

 

そこは私の交遊関係の狭さが反映されているといったわけだが、親しい知人がいたとしても、自分が安心できるテリトリーに他人を入れるなんて絶対に考えられなかった。

 

そこが守られなければ、メンタルがおかしくなるタイプの人間であった。

これは良い悪いではなく、私みたいな人の個性だ。

ここまでではなくとも、部屋には招き入れたくない心理を理解できる人、けっこういらっしゃるのではないかと思う。

 

ただ、私の場合は、他人を招き入れないことにより、独身の男性アルアルだと思うのだが、部屋の隅々が汚くなりやすかった。

よっぽど綺麗好きで、掃除に余念が無いタイプの人でなければ、いわゆる「汚部屋」になりやすい。

 

独身の女性であっても、勤務に忙しく余力がない人は同様のケースになるかもしれない。

例えば、女性であっても看護師さんは汚部屋になりやすい、という話、聞いたことがある人もいると思う(※)。

※看護師さんだからと言って全ての人がそうではないと思います。

 

私は、そのような経緯から、ベッドの下、あるいは浴室、キッチンなどが、少しずつ、そして確実に汚れてしまうことが多かった。

 

昔、何度目かの引っ越しの時、たまたま父母が簡単な手伝いに来てくれた時があった。

たまには来訪してくれて、ありがたかった。

 

さて、引っ越し前のバラされた部屋に両親を招き入れたわけだが、段ボールへの梱包やらの後の部屋は、埃がかなり残っていた。

わんさか とね。

 

少しだけ言い訳をすると、引っ越し後に入る清掃業者さんに任せるつもりだったので、いつも以上に床の掃除をしなかった経緯もあった。

 

特に父親は、その時に見た埃部屋の印象が強かったようで、後にこの事をネタにすることもあった。

ネタにされる私も悪いので仕方がない。

引っ越し前だったから、という弁明も、半分は正しく、半分は言い訳になるし、気持ちの良い会話ではないので、両親に手伝いに来てもらわなくてもよかったな、なんて気持ちになった事もある。

 

しかし、近年、私は極親しい人間のみ、自宅に招き入れるようになった。

そこは、私のキャパシティが増えたと言うか、それが人間力の有り無しではないけれど、そのような機会が増えた。

 

そのおかげで、定期的に清掃を心がけるようになり、決して完璧ではないものの、以前のような埃まみれ等の部屋ではなくなった。

 

そして清掃が億劫ではなくなった。

頻繁にするのは疲れるけれど。

日によって分けて清掃をしていれば問題ないわけで。

 

なんなら創意工夫もできたりで、時には100円均一ショップで購入した掃除アイテムを駆使して、見事に問題を改善、成功させたこともある。

 

私は少しずつ成長しているようだよ。

 

いい年して成長という言葉を使う?

いやいや、むしろ使おうか。

成長に年齢は関係ないのさ。

 

 

不適王