私 不適王は、たしか中学校3年生の3学期から、いよいよ学校へ行けなくった。
あれは初めて登校しなかった日のこと。
アパートの自宅を出て学校に行くふりをしたが、アパートの裏手の住宅街で時間をやり過ごした。
天気が良い日だったことを覚えている。
とにかくもう行けなかった。
限界だった。
今思えば親に説明をして登校しなければよかったのだが、後ろめたかったのか、親の反応が怖かったのか、伝えることができずに家を出た。
自宅を出る前から決めていたのか、出てから咄嗟に判断したのか、そこは覚えていない。
携帯電話は無い時代。
学校にも連絡はしていない。
身を潜めていた住宅街では、通りがかったオバチャンに声をかけられたが、私は適当に嘘を言ってその場をごまかした。
昼頃になって自宅に帰った。
学校から自宅に連絡が入っていたはずだが、自宅に帰って私は親にどう説明したのだろうか。
親は私に何と言ったのだろうか。
全く覚えていない。
それから私は学校に行けなくなった。
私にとっては心身を守るには遅すぎる決断だった。
親はどう思っていたのだろう。
親は、それまでの私の情緒不安定と混乱ぶりを知っているので、仕方なしに? 意外とアッサリ受け入れてくれたようにも記憶しているが。
その後、担任から、時々 放課後に中学校の応接室で面談をしないかと提案があった。
私は担任に自分のことを話すつもりはなかったし、そもそも学校に戻るつもりがなかったし、相談したいことなんて何も無かった。
それでもどういう風の吹き回しなのか、とりあえず足を運ぶことにした。
静まり返った夕方の中学校へ、それまでとは違う立ち位置(不登校生徒)としての登校、そして担任との関わりだった。
応接室のソファーに座り、金粉を入れたお茶を出してくれたことを覚えている。
担任は登校できなくなった私のことをどう思って、どうしようと思っていたのだろう。
担任とは日常の会話すらしたことがなかった。
気恥ずかしさも気まずさもあったことを覚えている。
面談は2、3回ほど行っただろうか。
すぐに行かなくなった。
私は知らなかったのだが、他のクラスにずいぶん早くから不登校の男子生徒が1人いたようだ。
素行不良で登校していないタイプではなく、大人しいタイプの生徒だったようだ。
まさかの不登校の先輩がいたのだ。
名前も顔もどんな生徒かも知らないし、同士としてコンタクトを取ることはできなかった。
その後、その生徒はどうしているのだろう。
私は初めて登校を拒否した日から1度も定時には登校せず、同級生にも会わずに中学校を卒業。
卒業文集に書いたものなんて、書くような思い出もないのに無理矢理書いたせいで、内容は他人が読んだらワケの分からないものだった。
いっそのこと、「中学校生活なんてクソ喰らえ」ぐらいの事を書けばよかったのだが、当時の私にはそんな勇気もなかった。
もちろん卒業式には出席しなかったし、卒業証書は母親が職員室に受け取りに行った。
私にとって中学校の卒業証書なんて全く価値がなく、どうでもよかった。
不適王