日頃ありがとうございます。
今日は私自身の経験に基づいたことを書かせて頂きます。
エッジが効いている内容となっておりますが、どうかご理解、ご了承下さい。
タイトルにもあるように「嘘」というものについてです。
傷つけない嘘、嘘も方便、という言葉を軽く掲げる人がいますよね。
だから良いのだと。
何が問題なのだと。
当然、嘘をつかれた側の人間が傷つかなければよいです。
しかし全てが必ずしもそうなるとはかぎりません。
その結果、希に甚大な精神的被害を被る場合もあるからです。
その場合は、優しい嘘、傷つかない嘘、嘘も方便、にはなりません。
嘘そのもではありません。
結果、相手がどうなったか?
意味はあったのか?
そこに何があったのか?
そこに何を見たのか?
ということが最も重要なわけですが、それは受け手の主観を伴う結果です。
嘘を方便として使った方の主観が入る余地はないということです。
そこに全てがあります。
同じ嘘でも、たとえ相手のことを想った上でも、
それは一方的な押し付けというものも存在します。
正義の押し付けというものが希に存在します。
それを知らないことは極めて危険です。
柔らかく優しい嘘と、受け手が後を引きずるトラウマティック ストレスな嘘とでは、全く次元の違うものなのです。
その柔らかい嘘の背もたれに もたれかかって言い訳する人は、脆弱で思慮が浅い人です。
私の経験上、真に相手のことを思っているならば、向き合う気持ちがあるならば、嘘という手段は極力使いません。
日常から嘘を方便として使いやすい人、正統性を主張する人は、実は危険をはらんだ人だと私は思っています。
軽すぎます。
これは決して楽しい話ではありません。
体罰と酷似しています。
体罰もほかの手段が面倒だから利用します。
同時に、それは自らの指導者としての力、また調整力がないと言っていることに等しいのです。
海外のスポーツの現場では、基本的に体罰というものは存在しません。
日本古来の悪しき風習であり、嘘も方便という古来よりの格言との親和性、暴力性、冷酷性を感じずにはいられません。
また合わせて、嘘も体罰も、最も重要な共通ファクターとして、相手との信頼関係の有無、ということも書き加えておく必要があります。
これは、私自身への戒めでもあるため、書かせて頂きました。
私も世の中もより良くなりますように。
不適王